青松寺菩提場

現在の青松寺の本堂が建立された当時(昭和5年)、その天井いっぱいに「菩提場陀羅尼」(ぼだいじょうだらに)というお経が梵字で書かれてありました。「菩提」とは、仏陀の正しい悟りの智、一切の煩悩から解放された、迷いの無い状態のことです。お寺とは、そういった「菩提」を得、すがすがしい身と心になれる空間なのです。青松寺が、訪れる皆さんにとってそのような場であり続けることを願っています。

発願(ほつがん)

発願とは、身のうちから願いが沸き起こることです

青松寺の願い
 
そこに森があるように
緑陰の中で木々と共にさまざまな生命があつまり
跳ね歌い歩んでいる
 
そこに泉があるように
人がのどの渇きを覚えたとき
滋味豊かな水でその身と心を潤すことができる
吹きわたる清風のように
四季のうつろいの中で
澄んだ眼の僧がただただ仏道を行じている
 
時に躍動感にあふれて
お互いの豊かな生命を輝かせ
時に静けさに満ちて
お互いが自己の生命をみつめている
 
都会の真ん中にありながらも
そんな 人々のよりそえる寺でありたい
 
素直に仏さまのお姿を感じ、お声を耳に
良きご縁を育む
そんな場になることを私は心から願っています

どうぞ一度お立ちよりください

 

合 掌

法燈(ほうとう)

法燈とは、受け継がれ、絶えることのない正法(仏の教え)のことです。

 
青松寺は、1476年に開創されて以来、多くの方々のお力により今日まで仏法が受け継がれてきました。その青松寺の歴史、青松寺にまつわる事柄をご紹介いたします。

 

青松寺について

宗 派

曹洞宗

宗 祖

道元禅師

本 山

永平寺(福井県) 総持寺(神奈川県)

山 号

萬年山(ばんねんざん)

寺 号

青松寺(せいしょうじ)

御本尊

釈迦牟尼如来(しゃかむににょらい)

開 創

文明八年(1476年。時は、足利幕府8代将軍足利義政・応仁の乱の時代。)

開 基

太田道灌公(関東管領・扇谷上杉氏に仕え、文武両道に秀でた室町中期の武将。長禄元年(1457)江戸城を築く。江戸城には連歌師や禅僧が多く集まった)

御開山

埼玉県越生の龍穏寺五世雲崗舜徳禅師をお迎えして創建

 縁起

開山当初は麹町貝塚(今の国立劇場・最高裁判所の辺り)にあり、「江戸貝塚青松寺」と称されました。その後、慶長五年(1600年)、徳川家康公が江戸城の外堀をつくる際に、愛宕山南に続く丘陵「含海山」と呼ばれる現在の地へと移りました。
 
寺の中に僧堂「獅子窟」を擁し、幾多の人材を輩出。明治八年(1875年)、獅子窟学寮内に曹洞宗専門学本校が開校します。翌年、駒込吉祥寺の旃檀林と合併し、今日の駒澤大学へと連なっていきます。
 
大正十二年(1923年)の関東大震災では堂塔は烏有に帰してしましましたが、歴代住職と檀信徒の青松寺復興に寄せる思いはあつく、今日の時節到来を迎えて再開発を行い、往時の伽藍を再建し、願いが叶えらました。
これにより青松寺本来の姿に立ちかえり、活溌な機能を果たす仏法興隆の場として、世に広く応じる事のできる構えを備えるに到ったのです。
 

資料館


『新撰東京名所図会』より (明治34年)

当時、山門前の愛宕下通りには美しい櫻川が溜池から流れていました。その当時の石橋は、現在、新たに青松寺境内に復興された櫻川にかかっています。
江戸時代から愛宕山は、武士たちの間の信仰と、山頂からの江戸市街の景観の素晴らしさで有名な場所であり、『鉄道唱歌』の第1番にも「愛宕の山」と歌われています。
山上にある愛宕神社は、もとは1603年にこれから建設される江戸の防火のために徳川家康の命で祀られた神社です。また、日本放送協会(NHK)の前身の一つである社団法人東京放送局(JOAK)は、この愛宕山に放送局を置き、1925年の日本初のラジオ放送は、この愛宕山から発信されました。
このように歴史の舞台となってきた愛宕山は、現在、萬年山青松寺・愛宕神社・NHK放送研究所と、それらを取り囲む超高層ビル群と併存して現代の姿となっています。
 

山門前


上記の『新撰東京名所図会』に同じ。
右手前に厩舎、その右奥は門番所です。
門前の高札には「説教」と大きく書かれ、毎月一日に行なわれていました。
 
 

中雀門 (ちゅうじゃくもん)

 
山門から境内へ入った所にあります。
境内には、参拝にいらしたおばあさんと、そのお孫さんが見えます。
 
 
 

鐘楼堂 (しょうろうどう)


大正12年(1923年)の関東大震災で境内堂宇全てが消失する前の鐘楼堂。
 
 
 
 
 
 
 

青松寺にまつわる写真・資料・エピソード等ございます方はお声かけ頂けましたら幸いです。